これで楽になれます、幸福になれますという胡散臭さについて
身体のある部分や精神的に弱っていることがあると何かにすがりついたり甘えたくなりますよね。
自分は苦労しているとか、自分が不幸だとか思っている人、あるいは未来が不安でたまらない人にとって、少しでも頼れる誰かや安心できる何かが欲しいものだとも思います。
不安産業はそこにつけこんでくるものだと思います。
そこにお金がからんでくるならばそれはビジネスと呼びます。
立派な金融機関で売っている生命保険も、もしもの時に備えてという、言うなれば不安を煽って金融商品を売りつけるビジネスです。
お金がからんでくると胡散臭さを感じてしまうのは僕が疑ぐり深い性格だからでしょうか。
不安に押しつぶされそうになって、誰かの強く説得力ある言葉やお勧めする何かに助けられることがあることを否定するつもりはありません。本当に助けてあげるべきひとはもちろんいます。
ただ、その側に寄り添ってくれた人が何をしようとしているのか、この居心地の良さは何なのか、この人この人たちの目的は何なのか、何でこの人は自分のために優しく勧めてくるのか、本当に愛してくれている家族や恋人より信頼できるものなのか、一度立ち止まって考える必要があると思います。
幸せになるには単純にこれを使えばとか、これを信じれば、といった単純でわかりやすいものではありません。幸せはそんなにも手っ取り早いものではありません。
因果関係はシンプルでわかりやすい図式ですが、説得力のあるもの、力強い言葉にこそ、疑いを持つべきだと思います。
居心地の良い居心地の悪さ。
自分が不幸だと思うのは甘えだとは言いませんが、もっと不幸な人は世界にたくさんいます。
そもそも幸不幸など考えることもなく、こつこつと大地に種子をまき、水をやり、豊かな果実を手にする日々を幸せというんじゃないでしょうか。
幸せな人は自分の幸不幸などに目もくれず、毎日を生きる人だと思います。
世界をわれわれの力で救済します、あなたをより高く幸福なステージへ導きます、という大きなお世話な人びとには近づかないよう、そして目に止まらぬようにしたいものです。
自分は運が良いからノープロブレムです、ぐらいの気持ちで生きて行きたいと思います。